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[釜山 歴史旅行] 「釜山の近代史」、影島大橋の跳開装置を公開 - 「釜山ㆍ慶南」 旅行ㆍ情報の窓口
 
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「釜山の近代史」、影島大橋の跳開装置を公開
[Write date]  2011-03-02 오전 8:20:04

釜山市の記念物第56号であり、解体・復元工事を控えた影島大橋(ヨンドテギョ)の跳開橋の跳開装置(橋を持ち上げる装置)が3月13日まで一般公開される。

影島大橋は当時の金額で360万ウォン(現在の価値に換算すると約360億ウォン)が投入され、1932年4月に起工された。釜山市が所蔵する影島大橋の竣工図面には、日本人である山本卯太郎氏の印鑑が押されており、彼が設計者であるとする説が有力だ。山本卯太郎氏は、当時大阪にあった「山本工務所」の社長だった。

影島大橋は橋の中央部分が持ち上がる一般的な昇開式の跳開橋とは違い、岸に近い部分に跳開装置を設置して橋の片側だけを持ち上げる形式の跳開橋だ。こういう橋は韓国で唯一だ。

当時影島には、造船工業をはじめとする軍需産業の集中し、資材や製品の運送、人の移動のために橋の建設が必要不可欠だと言われていた。

影島大橋の橋が持ち上げられる跳開部分は、全長214mの橋のうちチャガルチ市場に近い側の約31m。橋全体の工事費のうち両岸の埋め立てなどを除く、橋の工事だけに投じられた費用は70万8千ウォンで、さらにその半分近い33万4千ウォンが橋が持ち上げられる部分に使われた。橋の一部を持ち上げるためのトラス型(細長い部材を三角形につなく構造)の鉄構造物は、日本の「大阪汽車会社」で作られ、韓国で組み立てられた。


橋を跳開橋形式にしたのは、当時の漁船の形体に大きな理由があったと言われている。当時の漁船は櫓と帆を使って進む船がほとんどで、帆は10mを超える船が多かった。南海(ナメ)で魚を獲った漁船が影島大橋の下をくぐることができなければ、海流の強い太宗台(テジョンデ)の前の海を櫓を漕いで影島を一回りしてこなければならないという状況だった。

当時の漁船は橋が持ち上げられる時間を1日に7回(15分間ずつ)待っていたという記録が残っている。また橋の上には電車も通っていた。

釜山・影島間の海を埋め立てる築堤形式をとり、その中ほどに関門を作って船が行き来できるようにしようという案もあった。しかし、海水がよどむことによる水質汚染が懸念されて、その案は却下されたと伝えられている。

建設現場の橋梁解体技術者は、跳開装置を大型リベット(丸い釘)で組み立てた当時の技術力に驚きを感じたと言う。ある現場関係者は「人の手で一つ一つ作ったものにしては相当しっかりしていて、リベットとリベットの間隔が非常に狭くその精巧さは驚くべきものだ」と話す。

影島大橋は2月26日から3月13日まで一般開放された後、約2ヶ月にわたって完全に解体される。6車線で復元される新しい影島大橋は、2013年7月ごろ完工する予定。

歴史的な意味が大きい橋梁を復元するため、昔のような跳開機能のある橋にする。しかし、昔のように毎日橋が持ち上げられるのではない。釜山市は「影島タリ(橋)祭り」のように特別な日にだけ橋を持ち上げるという方針だ。








 

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