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[Busan AsiaGateway] 日本人女性の会「芙蓉会」國田房子会長 - 「釜山ㆍ慶南」 旅行ㆍ情報の窓口
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日本人女性の会「芙蓉会」國田房子会長
[write date]  2015-08-17 오후 2:50:49

8月11日午後、東莱(トンネ)区温泉(オンチョン)洞のある集合住宅。毎月20日になると、半生以上を「韓国人」として生きてきた日本人女性たちが、ここに集まる。太平洋戦争前後に朝鮮人男性と結婚し、朝鮮(韓国)に移り住んだ日本人女性の会「芙蓉会」だ。

1945年の日本の敗戦後、航路が絶えて故国に戻れなかった彼女たちは、数十年間、韓国と日本の飛び石としての役割をしてきた。前身の「大韓婦人会」が1964年に芙蓉会と名称を変えてからこれまで50年以上、集まりは続いている。
 
40、50代の「日本人オンマ(母)」たちは、今では白髪の90歳以上のハルモニ(おばあさん)になった。一時期、全国的に数千人に上った芙蓉会の会員は、1965年の国交正常化後、ほとんどが日本に帰った。釜山には1960年代まで、日本人女性500~600人が暮らしていたが、時が流れ、現在、釜山に残っているのはハルモニ4人だけだ。

今年102歳の誕生日を迎えた國田房子さんは、数十年間、芙蓉会を引っ張ってきた“長姉”だ。愛媛県出身の國田さんは、薬学を学びに日本に来た6歳年上の朝鮮人青年パクさんと出会った。國田さんが22歳の年だった。

家族は朝鮮人と結婚することを喜ぶはずがなかった。日本語が上手だった夫のことを「茨城出身」と嘘をついて結婚したが、実家の家族にすぐばれた。故郷・愛媛を離れ、東京や名古屋などを経て、1944年に玄界灘を越えて釜山に移り住んだ。翌年、日本は降伏宣言し、朝鮮は解放を迎えた。

異国での暮らしは大変だった。日本人を見る韓国人の視線は、解放前の不安や恐怖から、冷遇と蔑視に変わった。長い植民地生活によって、日本に対する憎悪が根深く残っていた頃だ。国交断絶で航路までなくなり、多くの日本人女性は家の中で息を殺すようにして暮らした。

國田さんは夫と共に薬局や精米所、醸造場などを運営しながら、7人の子どもを育てた。國田さんはそれでも状況がいい方だったという。

「韓国人の夫についてやって来たものの、家族からは見放され、日本人だという理由で仕事も得られず、苦労した人が多かったんですよ」。

國田さんは韓国各地を回りながら、家族も友だちもいない異国の地で寂しく暮らしている日本人主婦を訪ねて世話をした。

韓国人のための寄付や奉仕活動もよくした。温かい心に触れることもあったが、「日本人」という理由だけで、厳しい視線を向けられることもあった。

芙蓉会は中国の花、芙蓉から名づけた。韓国と日本の間で、ムクゲでもサクラでもない中国の花。半生以上を韓国人でも日本人でもない「境界人」として生きざるを得なかった彼女たちの人生がにじんでいる。

今年は解放70周年であると同時に、韓日国交正常化50周年の年でもある。韓国と日本のために最善を尽くして生きてきたが、歴史認識をめぐる両国の対立が深まるたびに、行くべき道がさらに遠くなった気がして残念だという。

「子の世代のためにも、両国がうまくいかないと。韓国がうまくいくと日本もうまくいくし、日本がうまくいくと韓国もうまくいく。お互いに譲り合いながら仲良く過ごせたらいいと思います」。

*写真は、今年102歳になった國田房子さんが8月11日、これまでの人生を振り返って話す様子。






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